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「ジョーカーって傷ついた人なの?」

イボ道場は一事が万事この調子だよなぁと思ったので、あえて指摘しようと思うのですが、イボナメクジが映画『ジョーカー』についてイボ舐めライジングにて「評論」してました。
まあ、評論とは名ばかりのただの感想文なのですが、そこでイボナメクジは『ジョーカー』を酷評していました。

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私は個人的な感想として『ジョーカー』を傑作だと思っていますが、それは私がスコセッシ作品を偏愛している上に、アメリカンニューシネマ時代の作品群が大好きだから、その当時の香りがする『ジョーカー』を好きになってしまうのは仕方がないことです。

アメリカンニューシネマは当時の政治状況や社会問題を剥き出しに抉り出しており、『ジョーカー』はその頃のアメリカを舞台にしているように見せながら現代の問題を抉っている作品です。
それゆえに鬼気迫る作品になっており、単なる娯楽作品として鑑賞した場合は楽しめないのかもしれません。

本来のジョーカーはアッパー系の完全悪の存在であり、悪を成すのにまったく躊躇がないのが売りみたいなものですが、今回のジョーカーはダウナー系であり、しかも果たして彼は悪でさえないのではないかと観ている側を揺さぶる作りになっています。
その複雑さを理解出来ないと、「いつもの純粋悪のジョーカーじゃないなんてつまらなーい!」と思い、酷評する人もそりゃいるのでしょう。
イボナメクジはまさにそれです。

しかし、酷評している人が必ずしもイボナメクジのようなアホだけではなく、映画のテーマをしっかり理解した上で批判している人もいます。



上リンクのレビューなどは『ジョーカー』を傑作であると信じて疑わない私でも思わず納得してしまいます。


しかるにイボの「ジョーカー」評の薄っぺらさたるや、言葉を失います。

そもそもイボは『ジョーカー』について《絶賛の嵐》などと書いていますが、まったくそんなことはなく、ヒットはしているものの賛否が分かれている作品であることは周知の事実です。
また、《薄甘い、ありきたりでわかりやすい悪、そんなもんがジョーカーか? そんな悪を描かないとウケないような感性でいいのか?》ってアホすぎる感想をさも核心を突いているかのようにドヤ顔で言うマヌケさはピエロを演じているのだとしても笑えませんよ。

むしろ理由なき悪、純粋悪や絶対悪の方がありきたりで分かりやすい悪じゃんすか。
それを不気味に演じ切ったからこそヒースジョーカーは魅力的であったわけですが、それすらもイボナメクジには理解出来ていないのでしょう。

イボの言っていることはそこいらの田吾作も言っている程度のものであり、そんなものは聞き飽きるほど聞いていて、わざわざ銭を払って読む馬鹿の気が知れません。


そして、そんなイボナメクジの凡庸な感想を受けてのライジングコメント欄の呆れるほどの従順さには乾いた笑いも出ません。

かつてのメーリングリストでは、牛タンメガネさんやらいてうブランシェットさんなどのの映画通が論理的に映画の感想を投稿していたのですが、隔世の感を禁じ得ません。


今やイボ道場は薄っぺら。
一事が万事、薄っぺら。


道場で男尊女卑やフェミニズムを「公論」した結果、《わしは馬鹿に尽くされてもめんどくさいし、頭のいい女に尽くされた方が嬉しい。》という考えに至ったようです。
ナニソレ…。

絶句ですよ、絶句。
本当に一事が万事この調子のペラさ。
これがイボ道場の公論であります。

この記事へのコメント

  • トラヴィス・ビックル

    ジョーカーは一度見て衝撃を受けて、日を開けずに二回目を見に行きました。見る度に発見があって考えさせられることが増えるので、考えることが好きな人はドはまりしますね。だから、面白くない、全然ダメという人は考えることが好きじゃなかったり苦手なのかもしれません。最も映画なんてものは娯楽なわけですし、どう感じるかも人それぞれで好き好きもありますからそれでも別にいいでしょうが、感想までも人に委ねたり従ってしまうとしたらそれは困りものですね。

    アーサーとカウンセラーのやりとりにもありましたね。
    「何を笑ってるの?」
    「ジョークを思いついた」
    「聞かせて」
    「どうせ理解できない」
    と。面白いか面白くないかは主観だし、理解できなくてもいいんですよーo(^o^)o

     この映画は論点がたくさんあるのできりがないのですが、そのひとつがこの主観というものではないかと思います。終盤アーサーが言いますよね。「善悪は主観である」と。実際そこに至るまで、ピンポン玉のように自分の中の善と悪という主観が翻弄されました。アーサーに殺されるホワイトカラー三人は善なのか?彼らを殺したアーサーを非難するトーマス・ウェイン、マレー・フランクリンは?アーサーの母は?そしてアーサーは悪なのか?と。

     表現の自由への挑戦も見受けられました。ハリウッドは日本よりよほどPCなどにシビアなようですが、残虐なシーンの中で、ある種の清涼剤のようにさえ感じてしまった身体障碍者のユーモアや(ドアの鍵~額へのキス)、性犯罪で収監中のゲイリー・グリッターの曲も実に良かったです(エレベーターに乗り込むアーサーの後ろ姿~階段でのダンス)。

    こういうのはひとえに創作者の腕にかかっていて、「表現の自由を守れー!」などという大義名分のもと、ただただデリカシーに欠けるだけだったり差別的表現を振りかざすというのは(ただの暴力であってユーモアとか毒とは呼びません)、あらためて愚の骨頂以外の何ものでもなく、創作者、表現者としてのスキルが足りないだけなのではないかと思いました。
    2019年11月14日 19:55