しかし、イボにアンチ認定された人たちは別に一枚岩であるわけではなく、それぞれ違う考え方、大袈裟に言えば、それぞれが違う思想の持ち主であることは明らかです。
これは何度も繰り返し言っていることでありますが、元門弟である牛タンメガネ氏(仮名)と私は政治的スタンスがまったく違います。
牛タンメガネ氏は皇室の伝統を守る為に皇統は男系を維持すべきであると考えていますが、私は伝統なんてクソ喰らえと舌を出していたい人であるので、当然皇統なんて男系だろうと女系だろうとどっちでも良いと考えています。
これだけでも我々は分かり合えないぐらいに違うのに、イボナメクジは「アンチ」として一括りにするのです。
他の元門弟の方の意見を聞いてみたのですが、その方々とも私は考え方が全然違うということを実感しました。
ある方は男女は平等であらねばならないので直系長子である敬宮内親王が次代の皇位を継承すべきであると考えているようですが、私はその意見には首を傾げます。
それは牛タンメガネ氏のように伝統に反しているからという意味合いではなく、フェミニズムの立場を取る人が家父長制の権化である皇位継承を容認することは大いなる矛盾であると思うから異議を申し上げたいのです。
皇統については私のあり方と牛タンメガネ氏のあり方は正反対ではありますが、二人とも矛盾がないので自信を持って自分の主張を公に向けて論じることが出来ます。
まさに「公論」です。
私は牛タンメガネ氏など、イボが「男系固執派」とレッテル貼りしている人たちとも意見が違いますが、天皇制については壇ミッツさんをはじめとした元門弟の方々とも意見が違いますし、美智子上皇后のファンである私の妻とも考え方が違います。
であるにも関わらず、イボナメクジは「アンチ」を一括りにして雑駁に語るものですから、的外れな批判になるのは当然と言えば当然です。
関西門下生のぶみカリィが「世帯主が女性であるのは嫌悪感がある」という発言をしたことについて私は何度も批判的に指摘していますが、もし彼が「皇統は男系男子が継ぐべきである」と主張しているのならば、そこまで批判することはなかったでしょう。
それが正しいかどうかはともかくとして言っていることに一貫性が保たれていれば違和感を覚えることはありません。
イボナメクジも伊藤詩織さんではなく、山口敬之を擁護していたら、なるほど、発言と行為が一致している奴だなと評価することも出来ます。
しかし、イボ道場の連中は言っていることが二転三転し、意見を変えたことについて何の説明もしないどころか「人は考え方が変わるのは当たり前」などと開き直り、言っていることとやっていることがアベコベであるのに、平気な顔して自分たちの矛盾を大声でがなり、ノイズで誤魔化そうとするのですから見過ごすわけにはいきません。
ラッキースケベ師範は國學院大學講師などをしているようですが、彼が人にものを教えることが出来るのでしょうか?
ラッキースケベ師範は活動的な少数派をノイジー・マジョリティーと書いているのはわざとなのでしょうか?
それはともかく、ラッキースケベ師範は《マジョリティーが“サイレント”ではなく、自覚的に『声』を挙げ始めれば事態は変わる。サイレント・マジョリティーからボーカル・マジョリティーへ」と。》《マジョリティーだからと言って“サイレント”と決め付けるのはおかしい。“ボーカル”に変身できるはずだ。》と言っていますが、それってつまり「パワー・トゥ・ザ・ピープル」というリベラルが好む価値観ではないですか。
保守の側が「愚民」とこき下ろす「声をあげる民の力」というやつです。
それにしても一体いつからイボ道場はマジョリティになったのでしょうか?
イボナメクジ などノイジー・レイシストの最たるものじゃないですか。
そのノイジー・レイシストを尊崇し、その発言内容だけではなく、口調まで真似をして、必死に近づこうとしている関西門下生のぶみカリィについて、これから更に追及していきたいと思いますので、よろしくお願いします。
この記事へのコメント
外野手
そういうのが、世の中がおかしい、世の中が間違っているという教祖や思想にすぐ取り込まれて、どんどん引き寄せられていく。
で、世の中のこと考えてる自分は周りよりランクが上と勝手にゲタはいて思い込む。ダメな奴は難しいこと考えようがダメな奴のまま。
オウムも暴力極左もどこぞも同じ構造。はた迷惑。
足りないおつむで世間のことを考える前に、自分のみじめな人生の立て直しや、自分の幸せのことを考えた方が世の中のためなんだけど。
外野手
自分の主観的な考え、論理思考で問題が解決できる、正しい世の中にできると考えるのは左翼の特徴であり、歴史上でもことごとく失敗しています。
イボは保守を名乗ろうが、最初から文句ばかりつける、人間の知力を信奉する浅はかな、根っからの左翼なのです。
人工的な概念である人権を持ち込み、伝統を変え破壊する影の左翼なのです。みなさんだまされてはいけません。
shinkimu
例えば「男女男女」と2千年間続いてきたら、今後永遠に「男女男女」と決まってるわけで。あるいは「男男女男男女」と桂馬のように飛んできたら、これからも永遠に桂馬のようにするわけで。あるいは「天皇家で毎朝1時間、イワシの頭にお祈り」してきたら、今後永遠にイワシの頭に1時間お祈りしなければいけない。
これが保守思想というもので、エドマンド・バーク風に言えば、「人間の知力などというものは、祖先の叡智が巨大な山のように堆積している古来からの“制度”には及ばない、矮小で欠陥だらけのもの」であり、それゆえ「理性主義を根源的に危険視し、慎慮を提起する。言い換えれば個々の人間を、多くの間違いを冒す不完全な存在と看做す」その「謙抑な人間観」こそが肝要ということです。
男尊女卑とか家父長性とかそういうことは単なる後づけの話で本質とは無関係なのです。そこがなかなかわかってもらえない。
たとえば将来、愛子様の御子孫が皇位を継承した場合、ウィキペディアにも以下のような記事が載ると思います。
「2000年以上に及ぶ皇統の万世一系はX年の時点で崩れており、実質的な王朝交代となっている。そのため現天皇は正統性を有した天皇ではないと主張する者もいる。」
憲法第一条の「天皇の地位は国民の総意に基づく」の部分が崩れてしまうわけですが、それは一部のマイノリティの主張などでは収まらず、やがて国民全体に野火の延焼のように拡がっていくものと思います。なぜならそれ(皇統すなわち血統)こそが天皇性の本質だからです。
言葉は悪いですが、「ハリボテ」になってしまうということです。
仙台藩祖伊達政宗の霊廟である瑞鳳殿は空襲で焼けてしまい今あるものは戦後建てられたレプリカです。それはそれは豪華絢爛で見事な建物ですが所詮レプリカはレプリカです。敬意を払う者はほとんどおらず、訪れる者も少なくすっかり寂れています。
天皇制も同じで、よく言われる「ここが崩れたら三代と持たずに潰れてしまう」というのはそういうことです。
本当にシンプルな話なんです。
この議論を意味のあるものにするためには、佐藤優さん風に言えば「相手の内在的論理をしっかりと捉え本質的な反論をする」ということが何より肝要かと思いますが、例によってゴー宣道場の言説は、意図的なものなのかもしれませんが、ひたすら的外れな揚げ足取りに終始したものでしかなく、これではアンチだけではなくシンパも白けないのかと不思議に思います。
この反知性的なワンパターンはいつまで続くのでしょうか。
私(だけでなく鷲ヲさんも同じかと思いますが)が道場に心から愛想が尽きた理由もそこにあり、いかなる立場を取るにせよ、読者の知性をあまり見誤らない方がよろしいかと思われます。「見ている人は見ている」のです。小林氏にしろその取り巻きにしろ、視野狭窄になりすぎたあまりの人知に対する「畏怖の欠如」はある意味感心するほどです。
後々ハッと目が覚めた時に、後悔でもんどり打つようなことにはならないでしょうか。他人のことながら心配になります。
小林先生をはじめ師範のみなさんは本当に後戻りできないところまで来てしまいました。それゆえの「謝ったら死ぬ病」だということはわかりますが。そのイライラが毎日の発信に現れています。その点に関しましては同情を禁じ得ない部分もあります。