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残酷な天使のテーゼ

イボナメクジがウルトラアンチに論理で打ちのめされたことについて見苦しい言い訳をブログに綴っています。

小林よしのりの「私人性」をアンチがいかに貶めようとしても意味がない。》

大半のイボ読者は私のブログの存在に気づいてなどいないのですから、イボがアンチ批判をしていても、批判している先がどこにあるのか分からない状態にあり、置いてけぼりをくっているのではないでしょうか。

批判相手を明言しなければ、存在しない敵に怯えている馬鹿にしか見えません。
おそらく読者の中には、爺さんは遂にボケが来てしまったのかと早とちりしている人もいることでしょう。
批判するなら、エアリプなどせず、正々堂々と相手先を示すべきなのです。

イボは《1人の人格の中には、「公人性」と「私人性」、そして「集団性」と「個人性」がある。》と言いますが、それはそれぞれを切り離して考えることは出来ない筈であり、たとえば岡田斗司夫が道徳を語ったところで信用を得ないのは私人性に問題があるからです。
それはフォトジャーナリストの広河隆一にも同じことが言えます。
どんなに公的な立場では人権問題について熱心に取り組んでいても、裏でセクハラやパワハラを繰り返していたのでは話になりません。

このようなことを言うと、イボナメクジはパブロ・ピカソを持ち出してきますが、それは論点のすり替えであります。
誰もピカソに清廉さなど求めていませんし、ピカソは別に人の道も説いてはいないのですから、彼が付き合っている女性を取っ替え引っ替えしていようが外野がとやかく言うことはないのです。
そもそもピカソのそれは情事であり、別に加害行為ではありませんしね。

わしは作品の中で何度も何度も公言してきたが、聖人君子ではないし、清廉潔白でもないし、女にだらしなく、どうしようもない男である。》
そうであるならば、何故にイボナメクジは岡田斗司夫について道徳を語る資格はないなどと批判していたのでしょうか。
また「女にだらしがない」のと「女に非道な行為を強要する」のは決して同義ではありません。
私はイボナメクジが女にだらしがないなどと言って批判はしていません。
不倫だろうと浮気だろうとそれが互いに同意した上での恋愛ならば自由にしたら良いと思います。
しかし、イボナメクジがしたことはそれに当たらないと私は指摘しているのです。
そこに答えず、ただデマだと逃げておいて、「わしは女にだらしないのは前から明言しとるもんねー」と論点をずらして誤魔化すとは何ともミジメな男です。

また、イボがマンガの中で自分を「どうしようもない男」として描いているのはあくまで偽悪であり、実際はそうではないからこそ、公共心や公徳心を説くことの出来る仕組みになっていたのであります。

元TBS記者の山口敬之や岡田斗司夫と何ら変わらない加害行為をしておいて、「それはわしの私人性だからごちゃごちゃ言うな。わしは公人としては伊藤詩織さんをはじめとした女性の為に戦っているんだからな」などという主張が通るわけがないでしょう。

しかし、イボ道場ではその理屈がまかり通るのですから、いかにあの界隈が異様な場所であるかがよく分かります。

わしの「私人性」に何かを期待する女性は、寄って来ない方がいい。》などという話ではありません。

わしの才能が失われたとき、誰がわしのそばにいるのだろうか?誰が優しくしてくれるのだろうか?》
何を自分に酔っているのですか?
いい加減に壇ミッツさんの訴えに正面から向き合うべきでしょう。


この記事へのコメント

  • ねこふとし

    偽造 ねつ造 安倍晋三
    不倫 蹂躙 デマよしりん
    2020年02月13日 16:16