抗議行動も訴えも「脅迫」になる社会では、健全な民主主義など望むべくもなくなってしまう。
この「抗議文」が脅迫にあたるなら、あいちトリエンナーレに送られた「ガソリンを持って参上する」などのメールは脅迫以上の犯罪予告だが、このところのゴー宣道場師範方の発言を見るに、抗議、批判、疑問などの「議論」すべき問題と、差別、脅迫、弾圧などの「抵抗」すべき問題との区別がまるでついていないように思われる。
ヘイトスピーカーをして「気に食わない発言をする人」とは?
ヘイトスピーチなんて、賛同出来なくて当たり前、いかにヘイトスピーチを防ぐかを考えなくてはならないはず。
ゴー宣道場の門弟だった私ですら、「こんなにひどかったっけ? おかしかったっけ?」と、心配せずにいられない。
今現在、門弟門下生である皆さま、どうか師範方の藁人形論法やすり替え、矮小化、自己矛盾をそれぞれ指摘して差し上げてもらえないでしょうか?》
https://twitter.com/hazuki_len/status/1170250553881792512?s=21
要するにエキノコックスは差別発言を繰り返している杉田水脈に対して抗議行動を起こすことはまかりならん。杉田水脈の言論の自由を守れと主張しているわけですが、この人は百田尚樹の講演会が中止になった時には何か言ってましたっけ?
ちゃんと百田尚樹の言論の自由は守られてしかるべきと主張していましたか?無論この先、N国の代表が海外に出張って、いつもの調子で放言することも認められるべきと主張するのでしょうし、桜井誠が新大久保で辻説法パフォーマンスする機会を奪っていいわけがないと思っているのでしょう。
エキノコックスの「むずかしいことはよく分からないのだけれども、私はそう思うのだけれども」というスタンスで書くブログについて、私たちは「だけれども論法」と呼んで、いつも失笑しているのだけれども、何故かエキノの思うことは毎回イボの意見を補完する形になっていて、普通はそれを追随と呼ぶのでしょうが、それを指摘したら、エキノはそんなつもりはサラサラないのだけれどもと言い逃れをし、たまたま奇跡的に偶然の一致が何度も炸裂しているだけなのだと思うのだけれどもと開き直るのが関の山です。
イボ言うところの衆愚である世間一般の人々は、杉田発言が海外にまでばら撒かれるのは「お国の恥」だと思ってしまうようですが、そんなことではいけないと思うのがイボ道場のスバラシイところ。(皮肉ですよ!)
エキノコックス師範は杉田水脈から議論の場を奪うことを批判するだけではなく、いっそのこと立花孝志や丸山穂高なども海外で講演会をするよう呼びかけ、日本の政治家の立場を国際社会に理解してもらうよう働きかけてみてはいかがでしょうか。
それにしても抗議の声を上げることを脅迫ととらえるエキノコックスの目には香港のデモは民衆が政府を脅迫しているように見えるのでしょうね。
ひたすらイボに追随し続けているエキノコックス師範について、元門弟の牛タンメガネ氏が見事なコメントをライジングコメント欄に投稿しておりましたが、ドロヘドロが高速削除してしまいましたので、私のブログに転載することにしましょう。
少々長文ではありますが、ゲロ坊主の無駄に長いゲロ論文とは違い、読ませる内容でありますので読むことがまったく苦になりませんので、全文をしっかり読んでみて下さい。
《泉美木蘭さんの「アンチと過去に居座る退行の欲求」を拝読いたしました。
以下、感想を記します。
木蘭さんの今回の原稿は小林先生のご依頼を受けてのものかと思いますが、これは一体誰に向かってシャドーボクシングをしているのでしょうか。
ゴー宣道場がアンチと認定しているのは鷲ヲさんや壇ミッツさん、あるいは私も含めて他に何名かいると思いますが、誰のことを書いているのでしょうか。どなたにも全く当てはまらないと思います。
一般論として書いたものとしても何のための一般論かがわかりません。
強いて言えば、ツイッターで特定のジャーナリストに執拗に絡む「いまだに内面は10代のまま、成長していましぇん」と言っているように見えてしまう人物…という方は時浦さんを思い出しました。
時浦さんを批判してどうしようというのでしょうか。
ここから窺えるのは、「こうあってほしい」というアンチ像をでっち上げて虚像に向かって批判を繰り返し、相手の話に正対し向かい合うつもりは1ミリもないという態度です。
それも宜なるかな。今ゴー宣道場の方々は「謝ったら死ぬ病」ではなく「相手の発言を聞いたら死ぬ病」にまで至っているからです。
ひたすら耳を塞ぎ、目を塞ぎ、どこにも存在しない「藁人形」をでっち上げそれをひたすら叩くことで安心を得ようとするしかないのです。
ところで、木蘭さんは、肩書に「作家」を自称されていますが、果たして木蘭さんは「作家」と呼ぶに値する方でしょうか。
誠に失礼ながら、この点には大きな疑問があります。
では、「作家」と「自称作家」の違いはなんでしょう。
昔のTVドラマや映画に出てくる作家のカリカチュアというものは、書いては原稿用紙をくしゃくしゃに丸め、書いては丸めで、部屋中が書き損じ原稿の山になっているというものですが、これはつまり、作家という人はひたすらにボツ原稿の山を築き、その中からほんの僅かに残った砂金のようなものを自分自身で発見し、それを血を吐くような思いでやっとのことで発表する職業という意味だったと思います。
木蘭さんは果たしてこの作業をご自分の中で行なっているでしょうか。
そのような厳しい内省に向かう姿というものが木蘭さんのお書きになったものからは全く感じられたことがありません。
ひたすら底の浅いどこかで聞いたことのある風なものをパタパタとキーボードを叩いて量産しているという印象しか受けません。
普通は書いた時点で気づくのです。
「これは通用しない。ゴミだ。」
そして頭をかきむしりながらくしゃくしゃに丸めてデスクトップ上のゴミ箱にそれを捨てるのです。
それが作家です。
木蘭さんのお書きになるものにはその痕跡が全くない。
書いたものは全て蛇口をひねれば出る水道の水のようにダラダラと安易に発表されてしまいます。
(と、いうように見えます。)
客観的な視点によるクオリティの担保を、自分でもチェックできてないし、小林先生もそれをできないし、あるいは幻冬舎の編集者の方もそれをできていないと思います。
この理由のひとつは「厳しい批評の目に晒されてていない」ということがあると思います。ひたすらクローズドの空間でシンパ達しか読まない空間で書きまくりお茶を濁しているということが大きいのではないですか。
小林先生のおかげで書く場所を提供されたのは誠に結構なことですが、それは諸刃の刃で、何を書いても賞賛されてしまう場所で書き続ければ、見るも無残なマッチポンプになってしまうのも当然です。
例えば皇位継承について書くなら、私のような真逆の考えを持つものにそれを問い、心胆寒かしらめて考えの根本転換を迫るようなインパクトを持ったもの。
作家ならそういうものを書かなければならないのではないでしょうか。
これはアンチだから言う訳ではなく、本当にそのようなものに出会ったことがないのです。
ですので、書いたものに対して実に容易に「これは違うのではないか」と反論することができます。すると即刻削除でなかったものにされます。
そして削除したあとに誰も読めない状態にしてから、ひたすら的外れの藁人形・エアリプ論法で批判者の人格攻撃がはじまります。
これが作家・言論人と呼ばれる者のやることでしょうか。
何度も申し上げたことですが、小さなコミュニティの内輪で良い気分になるためにはこれでもよかろうかと思います。しかし道場の三大目標なるもの、皇室典範や日本国憲法を改めてこの国の根本の成り立ちそのものを変革しようとという大目的がそれで達成できると本気で考えているのでしょうか?
さらに言えば、木蘭さんの個人としての目標(と推察される)「自称」ではない「作家」という肩書きにふさわしい人物として一本立ちするという目標も、こんな体たらくで達成できると本気で考えていらっしゃるのでしょうか。
こんな僭越なことを申し上げるのは誠に心苦しいですが、作家と呼ばれる者になるためにやらなければならないことは、著名な大物作家にすり寄って、その大物作家の子飼いになり、大物作家に懇意の編集者をつけてもらって、持ちつ持たれつでWEB上に書く場所を作ってもらうことではありません。
読むものを心胆寒からしめるようなインパクトのあるものを書いて、さらに厳しい世間の批評にさらされながら対峙し、ブラッシュアップしながら生き残らなければなりません。
その作業を怠り、飼われている作家のリクエストに答える形で意味のない空虚な文章をサイバー空間にたれ流しているだけで「作家」と自称するのでは、血を吐くように文字の連なりを世に問うている、本物の「作家」の人たちに対して、誠に失礼な態度であると申し上げるしかありません。》
イボの寄生虫エキノコックスにとって、壇ミッツさんや牛タンメガネ氏の言葉は耳が痛く、出来ることなら聞きたくないことかもしれませんが、本気で作家を目指すつもりがあるのならば、しっかり向き合わねばならない意見である筈です。
しかし、今のエキノコックスにはそのような誠実な態度を取ることは出来ないことでしょう。
この記事へのコメント
やっぱり門弟になったのは人生最大の黒歴史
牛タンメガネ氏のエキノコックス師範への感想と分析が、私も常々思っていたことと重なっていたので驚きました。
例えば私は天皇継承については男系に拘る必要無しと考えるものですが、他にはこのように意見の一致を見るイシューもあるでしょうし、なかなか落とし処の掴めないイシューもあるのでしょう。
本来の主旨でイボ道場をとらえるならば、このように真逆の思考を持った者とでも、「議論」でもって社会をより良くするために思考を前進させていく場であったはずなのです。愚かにも、私はそう思って参加していたので、それが全くの画餅であったと確信した時のみじめさといったら、モノが勃たなくなった時のイボりん先生どころじゃないですよ。
私も門弟の端くれとして、一時はライジングも購読していたし、えぶさいとのブログも一通り読んでいましたが、エキノコックス師範が「仕上げた作品」というものにお目にかかったことがないんですよね。
確かブログでも『光る板を眺める人間を観察する幽霊』みたいな「お話」を書き始めたことがあったように記憶しているのですが、あの幽霊は成仏したんでしょうか?と誰に聞いたら答えてもらえるのでしょうか?(すでに幽霊だったかどうかもハッキリ覚えていませんが)
私はクリエイターのサガとかいうものは想像するしかないですが、それでも「未完」というものほどクリエイターにとって屈辱なものはないのではないかと思うのです。少年ジャンプでは人気を得られない作品が、作者の構想などおかまいなしに終了させられることを「打ち切り」といって常態になっているそうですが、エキノコックス師範の場合は、そんな厳しい評価を気にする媒体でもないし、むしろ何を書いても持ち上げてもらえるのですから、思うさま書いて書いて書きまくれるはずなのです。
よく育児も褒めて伸ばせ、とか聞くじゃないですか。
ところがエキノコックス師範のお話は、いつまでたってももったいぶったプロローグの続きを読むことが出来ません。
これは読者をバカにした態度であり、作家としての矜持を疑われても仕方ないでしょう。
エキノコックス師範はイボりん先生に負けず劣らず忙しい日々を送ってオラレルらしいのですが、ついぞ新刊の告知も聞かれないのは、昨今の出版不況のせいでしょう、そうに違いありません。
ネットサーフィンでかき集めた情報でまとめたコラムらしき作品にもなかなかお目にかかれないのも、たんに私がウェブ媒体に疎いせいでしょう、本当に申し訳ないです。
イボりん先生が絶賛する才能の持ち主なんですから、直木賞受賞作家にエキノコックス師範の名前が連なる日も、100年後の妄想伝説で終わるはずありません。
と、皮肉が通じる状態でもないのでしょうね。
本当に残念です。