その疑義に一切答えずに削除して、疑問をなかったことにしているのはどうなのでしょうか?
議論は民主主義の基本であり、公論とは公平で偏らない議論のことを言うのではないですか?
その議論から遁走し、自分を賛美するだけの連中が集まるオフ会に参加して、のぼせ上がっている現状に呆れ果てた読者が次々と離れていっているのが実情でしょう。
カリィ紅衛兵や苔ナビを始め、尻の穴男や遅延ブーなどの計り知れないアホだけがイボ道場に残り続けているのです。
まさにグレシャムの法則を体現しているのが、イボ道場です。
《泉美木蘭さんの「アンチと過去に居座る退行の欲求」を拝読いたしました。
以下、感想を記します。
木蘭さんの今回の原稿は小林先生のご依頼を受けてのものかと思いますが、これは一体誰に向かってシャドーボクシングをしているのでしょうか。
ゴー宣道場がアンチと認定しているのは鷲ヲさんや壇ミッツさん、あるいは私も含めて他に何名かいると思いますが、誰のことを書いているのでしょうか。どなたにも全く当てはまらないと思います。
一般論として書いたものとしても何のための一般論かがわかりません。
強いて言えば、ツイッターで特定のジャーナリストに執拗に絡む「いまだに内面は10代のまま、成長していましぇん」と言っているように見えてしまう人物…という方は時浦さんを思い出しました。
時浦さんを批判してどうしようというのでしょうか。
ここから窺えるのは、「こうあってほしい」というアンチ像をでっち上げて虚像に向かって批判を繰り返し、相手の話に正対し向かい合うつもりは1ミリもないという態度です。
それも宜なるかな。今ゴー宣道場の方々は「謝ったら死ぬ病」ではなく「相手の発言を聞いたら死ぬ病」にまで至っているからです。
ひたすら耳を塞ぎ、目を塞ぎ、どこにも存在しない「藁人形」をでっち上げそれをひたすら叩くことで安心を得ようとするしかないのです。
ところで、木蘭さんは、肩書に「作家」を自称されていますが、果たして木蘭さんは「作家」と呼ぶに値する方でしょうか。
誠に失礼ながら、この点には大きな疑問があります。
では、「作家」と「自称作家」の違いはなんでしょう。
昔のTVドラマや映画に出てくる作家のカリカチュアというものは、書いては原稿用紙をくしゃくしゃに丸め、書いては丸めで、部屋中が書き損じ原稿の山になっているというものですが、これはつまり、作家という人はひたすらにボツ原稿の山を築き、その中からほんの僅かに残った砂金のようなものを自分自身で発見し、それを血を吐くような思いでやっとのことで発表する職業という意味だったと思います。
木蘭さんは果たしてこの作業をご自分の中で行なっているでしょうか。
そのような厳しい内省に向かう姿というものが木蘭さんのお書きになったものからは全く感じられたことがありません。
ひたすら底の浅いどこかで聞いたことのある風なものをパタパタとキーボードを叩いて量産しているという印象しか受けません。
普通は書いた時点で気づくのです。
「これは通用しない。ゴミだ。」
そして頭をかきむしりながらくしゃくしゃに丸めてデスクトップ上のゴミ箱にそれを捨てるのです。
それが作家です。
木蘭さんのお書きになるものにはその痕跡が全くない。
書いたものは全て蛇口をひねれば出る水道の水のようにダラダラと安易に発表されてしまいます。
(と、いうように見えます。)
客観的な視点によるクオリティの担保を、自分でもチェックできてないし、小林先生もそれをできないし、あるいは幻冬舎の編集者の方もそれをできていないと思います。
この理由のひとつは「厳しい批評の目に晒されてていない」ということがあると思います。ひたすらクローズドの空間でシンパ達しか読まない空間で書きまくりお茶を濁しているということが大きいのではないですか。
小林先生のおかげで書く場所を提供されたのは誠に結構なことですが、それは諸刃の刃で、何を書いても賞賛されてしまう場所で書き続ければ、見るも無残なマッチポンプになってしまうのも当然です。
例えば皇位継承について書くなら、私のような真逆の考えを持つものにそれを問い、心胆寒かしらめて考えの根本転換を迫るようなインパクトを持ったもの。
作家ならそういうものを書かなければならないのではないでしょうか。
これはアンチだから言う訳ではなく、本当にそのようなものに出会ったことがないのです。
ですので、書いたものに対して実に容易に「これは違うのではないか」と反論することができます。すると即刻削除でなかったものにされます。
そして削除したあとに誰も読めない状態にしてから、ひたすら的外れの藁人形・エアリプ論法で批判者の人格攻撃がはじまります。
これが作家・言論人と呼ばれる者のやることでしょうか。
何度も申し上げたことですが、小さなコミュニティの内輪で良い気分になるためにはこれでもよかろうかと思います。しかし道場の三大目標なるもの、皇室典範や日本国憲法を改めてこの国の根本の成り立ちそのものを変革しようとという大目的がそれで達成できると本気で考えているのでしょうか?
さらに言えば、木蘭さんの個人としての目標(と推察される)「自称」ではない「作家」という肩書きにふさわしい人物として一本立ちするという目標も、こんな体たらくで達成できると本気で考えていらっしゃるのでしょうか。
こんな僭越なことを申し上げるのは誠に心苦しいですが、作家と呼ばれる者になるためにやらなければならないことは、著名な大物作家にすり寄って、その大物作家の子飼いになり、大物作家に懇意の編集者をつけてもらって、持ちつ持たれつでWEB上に書く場所を作ってもらうことではありません。
読むものを心胆寒からしめるようなインパクトのあるものを書いて、さらに厳しい世間の批評にさらされながら対峙し、ブラッシュアップしながら生き残らなければなりません。
その作業を怠り、飼われている作家のリクエストに答える形で意味のない空虚な文章をサイバー空間にたれ流しているだけで「作家」と自称するのでは、血を吐くように文字の連なりを世に問うている、本物の「作家」の人たちに対して、誠に失礼な態度であると申し上げるしかありません。》
この記事へのコメント
ケンシロウ
「ゴー宣道場」門下生へ「出稽古」のススメ
道場は本来、仲間同士で本気になりながら血を流し合う場所であり、「誹謗中傷」をする場所ではない。師範が弟子に性的な願いをかける行為など論外である。
師範、門弟諸君に対して私はひとつ提案がある。一度「武道場」へ出稽古に出かけるのはどうだろうか。言葉だけでは決して分からない大切な「何か」がきっと学べることだろう。場所は「国士舘大学柔道部」または「明治大学柔道部」が良い。フィットネス感覚で身体を動かせる町道場では意味がない。「稽古」が必要なのである。稽古前の想像を絶するような殺伐とした雰囲気や稽古中の地獄のような苦しさを体感出来れば、少しでも「道場」の本質が理解出来るだろう。
稽古は勿論、男性門弟、女性門弟ともに「平等」に行うことが出来る。女子柔道部がある国士舘大学が良いかも知れない。小林よしのり先生の名前を出せば、敬意を持って受け入れてくれることだろう。
滝のように流れる汗と、朦朧とした意識と、そして「死を意識」する恐怖心を乗り越えれば、馬鹿みたいな内部の誹謗中傷合戦で身についた憎々しい感情など、きっとどこかへ吹き飛んでいることだろう。
「ゴー宣道場」門下生諸君。是非「武道場」への出稽古を考えてみたらどうだろうか。私は心の底からオススメさせていただく。
全国各地に集結出来るのだから、時間は十分にあるはずである。