2コメント

悪貨が良貨を駆逐した道場

昨日紹介した牛タンメガネさんのライジングコメント欄への投稿について、イボナメクジは弁明ブログを書いております。

悪貨は良貨を駆逐する。公共の場は掃除しなければならない。ちぇぶもurikaniさんもあの公共の場から発掘された。優秀な読者はいる。》

「あの公共の場」とはライジングコメント欄のことを指しているわけですが、それならば何故はっきりとライジングコメント欄と明言しないのでしょうか。

イボナメクジは牛タンメガネさんの投稿を悪貨と言いたいようですが、彼の文章のどこが悪貨であるのでしょうか。
このことは私は度々言及していますが、イボ言論に対する反対意見を掃除と称して削除した結果、門下生側の罵詈雑言コメントだけが残り、見るも無残な荒廃した場所に成り果てるのです。

そういう意味では、確かに仰る通りライジングコメント欄及び道場メーリングリストは良貨が駆逐され悪貨にまみれた場所になっています。

ライジングコメント欄にネトウヨが氾濫してきた。「ゲスト」という匿名性を利用しても、トッキーは怯むことはない。ガンガン削除してよろしい。「意見」で削除すればそれでいい。悪貨は良貨を駆逐する。》

イボナメクジは以前、まともな読者はみんな道場メーリングリストに移動してしまった為に、ライジングコメント欄は質が低下し、劣化の極みに達しているかのように言い訳を書いていましたが、何のことはないメーリングリストの質もライジングコメント欄と大差がないことが論客ゲロ坊主のゲロ論文によって証明されてしまいました。

ライジングコメント欄への投稿が激減した理由は尻の穴男やフリテン君やバカ牛や略称アナモチや吉兆クラゲなどの悪貨が溢れかえっているせいだけではないでしょう。
差別的な罵倒やいわれなき中傷ではない、ただの反対意見や異論に対して、論破することなく、無言で削除していることに疑問を感じ、果たして道場の主張は正しいのかと自ら情報を精査した結果として読者が離れ、コメント数が激減したのではないでしょうか?

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上にあるコメントは特に皇統は男系男子で継ぐべきと言っているわけでもなければ、罵詈雑言の類いでもなく、イボナメクジの主張の矛盾について疑問を呈しているだけです。
その疑義に一切答えずに削除して、疑問をなかったことにしているのはどうなのでしょうか?
議論は民主主義の基本であり、公論とは公平で偏らない議論のことを言うのではないですか?
その議論から遁走し、自分を賛美するだけの連中が集まるオフ会に参加して、のぼせ上がっている現状に呆れ果てた読者が次々と離れていっているのが実情でしょう。


舞妓大福もたこ焼き侍も可愛い。10代にしか見えない30代の女性には仰天した。みなぼんと似たおうちの人で読書家なところが気に入った。》

合法ロリの何が悪いと開き直るように、10代にしか見えない30代の味醂A(仮名)に興奮するイボナメクジを真っ当な言論人であると思っている奴は常識のある一般人の中にはもはやいません。
カリィ紅衛兵や苔ナビを始め、尻の穴男や遅延ブーなどの計り知れないアホだけがイボ道場に残り続けているのです。
まさにグレシャムの法則を体現しているのが、イボ道場です。


最後にイボナメクジが悪貨だと言って、掃除と称して削除した牛タンメガネさんのコメントを再度紹介しておきましょう。

泉美木蘭さんの「アンチと過去に居座る退行の欲求」を拝読いたしました。

以下、感想を記します。


木蘭さんの今回の原稿は小林先生のご依頼を受けてのものかと思いますが、これは一体誰に向かってシャドーボクシングをしているのでしょうか。

ゴー宣道場がアンチと認定しているのは鷲ヲさんや壇ミッツさん、あるいは私も含めて他に何名かいると思いますが、誰のことを書いているのでしょうか。どなたにも全く当てはまらないと思います。

一般論として書いたものとしても何のための一般論かがわかりません。


強いて言えば、ツイッターで特定のジャーナリストに執拗に絡む「いまだに内面は10代のまま、成長していましぇん」と言っているように見えてしまう人物という方は時浦さんを思い出しました。

時浦さんを批判してどうしようというのでしょうか。


ここから窺えるのは、「こうあってほしい」というアンチ像をでっち上げて虚像に向かって批判を繰り返し、相手の話に正対し向かい合うつもりは1ミリもないという態度です。

それも宜なるかな。今ゴー宣道場の方々は「謝ったら死ぬ病」ではなく「相手の発言を聞いたら死ぬ病」にまで至っているからです。

ひたすら耳を塞ぎ、目を塞ぎ、どこにも存在しない「藁人形」をでっち上げそれをひたすら叩くことで安心を得ようとするしかないのです。


ところで、木蘭さんは、肩書に「作家」を自称されていますが、果たして木蘭さんは「作家」と呼ぶに値する方でしょうか。

誠に失礼ながら、この点には大きな疑問があります。


では、「作家」と「自称作家」の違いはなんでしょう。

昔のTVドラマや映画に出てくる作家のカリカチュアというものは、書いては原稿用紙をくしゃくしゃに丸め、書いては丸めで、部屋中が書き損じ原稿の山になっているというものですが、これはつまり、作家という人はひたすらにボツ原稿の山を築き、その中からほんの僅かに残った砂金のようなものを自分自身で発見し、それを血を吐くような思いでやっとのことで発表する職業という意味だったと思います。


木蘭さんは果たしてこの作業をご自分の中で行なっているでしょうか。

そのような厳しい内省に向かう姿というものが木蘭さんのお書きになったものからは全く感じられたことがありません。

ひたすら底の浅いどこかで聞いたことのある風なものをパタパタとキーボードを叩いて量産しているという印象しか受けません。

普通は書いた時点で気づくのです。

「これは通用しない。ゴミだ。」

そして頭をかきむしりながらくしゃくしゃに丸めてデスクトップ上のゴミ箱にそれを捨てるのです。

それが作家です。

木蘭さんのお書きになるものにはその痕跡が全くない。


書いたものは全て蛇口をひねれば出る水道の水のようにダラダラと安易に発表されてしまいます。

(と、いうように見えます。)

客観的な視点によるクオリティの担保を、自分でもチェックできてないし、小林先生もそれをできないし、あるいは幻冬舎の編集者の方もそれをできていないと思います。

この理由のひとつは「厳しい批評の目に晒されてていない」ということがあると思います。ひたすらクローズドの空間でシンパ達しか読まない空間で書きまくりお茶を濁しているということが大きいのではないですか。


小林先生のおかげで書く場所を提供されたのは誠に結構なことですが、それは諸刃の刃で、何を書いても賞賛されてしまう場所で書き続ければ、見るも無残なマッチポンプになってしまうのも当然です。


例えば皇位継承について書くなら、私のような真逆の考えを持つものにそれを問い、心胆寒かしらめて考えの根本転換を迫るようなインパクトを持ったもの。

作家ならそういうものを書かなければならないのではないでしょうか。


これはアンチだから言う訳ではなく、本当にそのようなものに出会ったことがないのです。

ですので、書いたものに対して実に容易に「これは違うのではないか」と反論することができます。すると即刻削除でなかったものにされます。

そして削除したあとに誰も読めない状態にしてから、ひたすら的外れの藁人形・エアリプ論法で批判者の人格攻撃がはじまります。

これが作家・言論人と呼ばれる者のやることでしょうか。


何度も申し上げたことですが、小さなコミュニティの内輪で良い気分になるためにはこれでもよかろうかと思います。しかし道場の三大目標なるもの、皇室典範や日本国憲法を改めてこの国の根本の成り立ちそのものを変革しようとという大目的がそれで達成できると本気で考えているのでしょうか?


さらに言えば、木蘭さんの個人としての目標(と推察される)「自称」ではない「作家」という肩書きにふさわしい人物として一本立ちするという目標も、こんな体たらくで達成できると本気で考えていらっしゃるのでしょうか。

こんな僭越なことを申し上げるのは誠に心苦しいですが、作家と呼ばれる者になるためにやらなければならないことは、著名な大物作家にすり寄って、その大物作家の子飼いになり、大物作家に懇意の編集者をつけてもらって、持ちつ持たれつでWEB上に書く場所を作ってもらうことではありません。


読むものを心胆寒からしめるようなインパクトのあるものを書いて、さらに厳しい世間の批評にさらされながら対峙し、ブラッシュアップしながら生き残らなければなりません。

その作業を怠り、飼われている作家のリクエストに答える形で意味のない空虚な文章をサイバー空間にたれ流しているだけで「作家」と自称するのでは、血を吐くように文字の連なりを世に問うている、本物の「作家」の人たちに対して、誠に失礼な態度であると申し上げるしかありません。



小林先生、「アンチの心理分析をして欲しい」拝読いたしました。当事者として、お答えいたしますね。

小林先生、ザ・ビートルズの「セクシー・セディ」という曲をご存知ですか。
ビートルズの4人は一時インド哲学に傾倒し、わざわざヒマラヤ山麓のリケリシュまで行ってマハリシ・ヨギという導師のセミナーを受けるわけですが、そこで生活を共にした時に、メンバーたちはマハリシのあまりの俗物ぶりに驚き失望し、帰国してからジョン・レノンはそれを歌にしました。
それが「セクシー・セディー」という曲です。

「セクシーなセディーよ、自分のやったことを見てみな。あんたはみんなを馬鹿にした。
ルールを踏みにじって、みんなを馬鹿にしたんだ。」

という歌です。
アンチの気持ちがわからない、などとしらじらしく仰ってましたが、何度も申し上げているように、あなたと、あなたの一派は、あなたに心を寄せてくるファンに対して、絶対にやってはいけない最低のことをしました。

マンガでも良いでしょう、ファンクラブでも、遊びでも、商売でも良いでしょう。さらに言えばペテンでも良いと思います。
そうであっても、それ以上の絶対にやってはいけないことをあなたとあなたの一派はやりました。
自分たちの利益を守るために、最低の手口でやりました。
ですので私たちはそれを歌にしているだけですよ。
執着なんてしていません。歌を歌っているだけです。

「あなたのやったことを見てみなよ。あなたはみんなをバカにした。」という歌です。

人はやったことに対して報いは受けるべきだとも思います。
同じことを繰り返してますからね。しかも追い詰められて手口はどんどん悪質になって来ています。

今まだ気づかずに巻き込まれている人たちにも警告として知らせる必要もあるのではないですか。
これも「公」のためでもあります。



この記事へのコメント

  • ケンシロウ

    アンチの人達のコメントも読めば納得出来ますね。
    2020年02月28日 17:49
  • 「ゴー宣道場」門下生へ「出稽古」のススメ

    Shinkimu氏の作家論は見事である。この人はおそらく経営者としての素質があるのだから、非生産的なネットの世界に埋没するのは勿体なさすぎるのではないか。
    道場は本来、仲間同士で本気になりながら血を流し合う場所であり、「誹謗中傷」をする場所ではない。師範が弟子に性的な願いをかける行為など論外である。
    師範、門弟諸君に対して私はひとつ提案がある。一度「武道場」へ出稽古に出かけるのはどうだろうか。言葉だけでは決して分からない大切な「何か」がきっと学べることだろう。場所は「国士舘大学柔道部」または「明治大学柔道部」が良い。フィットネス感覚で身体を動かせる町道場では意味がない。「稽古」が必要なのである。稽古前の想像を絶するような殺伐とした雰囲気や稽古中の地獄のような苦しさを体感出来れば、少しでも「道場」の本質が理解出来るだろう。
    稽古は勿論、男性門弟、女性門弟ともに「平等」に行うことが出来る。女子柔道部がある国士舘大学が良いかも知れない。小林よしのり先生の名前を出せば、敬意を持って受け入れてくれることだろう。
    滝のように流れる汗と、朦朧とした意識と、そして「死を意識」する恐怖心を乗り越えれば、馬鹿みたいな内部の誹謗中傷合戦で身についた憎々しい感情など、きっとどこかへ吹き飛んでいることだろう。
    「ゴー宣道場」門下生諸君。是非「武道場」への出稽古を考えてみたらどうだろうか。私は心の底からオススメさせていただく。
    全国各地に集結出来るのだから、時間は十分にあるはずである。
    2020年02月15日 13:28