以下、感想を記します。
木蘭さんの今回の原稿は小林先生のご依頼を受けてのものかと思いますが、これは一体誰に向かってシャドーボクシングをしているのでしょうか。
ゴー宣道場がアンチと認定しているのは鷲ヲさんや壇ミッツさん、あるいは私も含めて他に何名かいると思いますが、誰のことを書いているのでしょうか。どなたにも全く当てはまらないと思います。
一般論として書いたものとしても何のための一般論かがわかりません。
強いて言えば、ツイッターで特定のジャーナリストに執拗に絡む「いまだに内面は10代のまま、成長していましぇん」と言っているように見えてしまう人物…という方は時浦さんを思い出しました。
時浦さんを批判してどうしようというのでしょうか。
ここから窺えるのは、「こうあってほしい」というアンチ像をでっち上げて虚像に向かって批判を繰り返し、相手の話に正対し向かい合うつもりは1ミリもないという態度です。
それも宜なるかな。今ゴー宣道場の方々は「謝ったら死ぬ病」ではなく「相手の発言を聞いたら死ぬ病」にまで至っているからです。
ひたすら耳を塞ぎ、目を塞ぎ、どこにも存在しない「藁人形」をでっち上げそれをひたすら叩くことで安心を得ようとするしかないのです。
ところで、木蘭さんは、肩書に「作家」を自称されていますが、果たして木蘭さんは「作家」と呼ぶに値する方でしょうか。
誠に失礼ながら、この点には大きな疑問があります。
では、「作家」と「自称作家」の違いはなんでしょう。
昔のTVドラマや映画に出てくる作家のカリカチュアというものは、書いては原稿用紙をくしゃくしゃに丸め、書いては丸めで、部屋中が書き損じ原稿の山になっているというものですが、これはつまり、作家という人はひたすらにボツ原稿の山を築き、その中からほんの僅かに残った砂金のようなものを自分自身で発見し、それを血を吐くような思いでやっとのことで発表する職業という意味だったと思います。
木蘭さんは果たしてこの作業をご自分の中で行なっているでしょうか。
そのような厳しい内省に向かう姿というものが木蘭さんのお書きになったものからは全く感じられたことがありません。
ひたすら底の浅いどこかで聞いたことのある風なものをパタパタとキーボードを叩いて量産しているという印象しか受けません。
普通は書いた時点で気づくのです。
「これは通用しない。ゴミだ。」
そして頭をかきむしりながらくしゃくしゃに丸めてデスクトップ上のゴミ箱にそれを捨てるのです。
それが作家です。
木蘭さんのお書きになるものにはその痕跡が全くない。
書いたものは全て蛇口をひねれば出る水道の水のようにダラダラと安易に発表されてしまいます。
(と、いうように見えます。)
客観的な視点によるクオリティの担保を、自分でもチェックできてないし、小林先生もそれをできないし、あるいは幻冬舎の編集者の方もそれをできていないと思います。
この理由のひとつは「厳しい批評の目に晒されてていない」ということがあると思います。ひたすらクローズドの空間でシンパ達しか読まない空間で書きまくりお茶を濁しているということが大きいのではないですか。
小林先生のおかげで書く場所を提供されたのは誠に結構なことですが、それは諸刃の刃で、何を書いても賞賛されてしまう場所で書き続ければ、見るも無残なマッチポンプになってしまうのも当然です。
例えば皇位継承について書くなら、私のような真逆の考えを持つものにそれを問い、心胆寒かしらめて考えの根本転換を迫るようなインパクトを持ったもの。
作家ならそういうものを書かなければならないのではないでしょうか。
これはアンチだから言う訳ではなく、本当にそのようなものに出会ったことがないのです。
ですので、書いたものに対して実に容易に「これは違うのではないか」と反論することができます。すると即刻削除でなかったものにされます。
そして削除したあとに誰も読めない状態にしてから、ひたすら的外れの藁人形・エアリプ論法で批判者の人格攻撃がはじまります。
これが作家・言論人と呼ばれる者のやることでしょうか。
何度も申し上げたことですが、小さなコミュニティの内輪で良い気分になるためにはこれでもよかろうかと思います。しかし道場の三大目標なるもの、皇室典範や日本国憲法を改めてこの国の根本の成り立ちそのものを変革しようとという大目的がそれで達成できると本気で考えているのでしょうか?
さらに言えば、木蘭さんの個人としての目標(と推察される)「自称」ではない「作家」という肩書きにふさわしい人物として一本立ちするという目標も、こんな体たらくで達成できると本気で考えていらっしゃるのでしょうか。
こんな僭越なことを申し上げるのは誠に心苦しいですが、作家と呼ばれる者になるためにやらなければならないことは、著名な大物作家にすり寄って、その大物作家の子飼いになり、大物作家に懇意の編集者をつけてもらって、持ちつ持たれつでWEB上に書く場所を作ってもらうことではありません。
読むものを心胆寒からしめるようなインパクトのあるものを書いて、さらに厳しい世間の批評にさらされながら対峙し、ブラッシュアップしながら生き残らなければなりません。
その作業を怠り、飼われている作家のリクエストに答える形で意味のない空虚な文章をサイバー空間にたれ流しているだけで「作家」と自称するのでは、血を吐くように文字の連なりを世に問うている、本物の「作家」の人たちに対して、誠に失礼な態度であると申し上げるしかありません。》
https://washiblog.seesaa.net/article/473577875.html
この牛タンメガネさんの寄生虫批評に触発された方が、コメントしてくださったので紹介します。
《牛タンメガネ氏のエキノコックス師範への感想と分析が、私も常々思っていたことと重なっていたので驚きました。
例えば私は天皇継承については男系に拘る必要無しと考えるものですが、他にはこのように意見の一致を見るイシューもあるでしょうし、なかなか落とし処の掴めないイシューもあるのでしょう。
本来の主旨でイボ道場をとらえるならば、このように真逆の思考を持った者とでも、「議論」でもって社会をより良くするために思考を前進させていく場であったはずなのです。
私も門弟の端くれとして、一時はライジングも購読していたし、えぶさいとのブログも一通り読んでいましたが、エキノコックス師範が「仕上げた作品」というものにお目にかかったことがないんですよね。
確かブログでも『光る板を眺める人間を観察する幽霊』みたいな「お話」を書き始めたことがあったように記憶しているのですが、あの幽霊は成仏したんでしょうか?と誰に聞いたら答えてもらえるのでしょうか?(すでに幽霊だったかどうかもハッキリ覚えていませんが)
私はクリエイターのサガとかいうものは想像するしかないですが、それでも「未完」というものほどクリエイターにとって屈辱なものはないのではないかと思うのです。
よく育児も褒めて伸ばせ、とか聞くじゃないですか。
ところがエキノコックス師範のお話は、いつまでたってももったいぶったプロローグの続きを読むことが出来ません。
これは読者をバカにした態度であり、作家としての矜持を疑われても仕方ないでしょう。
エキノコックス師範はイボりん先生に負けず劣らず忙しい日々を送ってオラレルらしいのですが、ついぞ新刊の告知も聞かれないのは、昨今の出版不況のせいでしょう、そうに違いありません。
ネットサーフィンでかき集めた情報でまとめたコラムらしき作品にもなかなかお目にかかれないのも、たんに私がウェブ媒体に疎いせいでしょう、本当に申し訳ないです。
イボりん先生が絶賛する才能の持ち主なんですから、直木賞受賞作家にエキノコックス師範の名前が連なる日も、100年後の妄想伝説で終わるはずありません。
と、皮肉が通じる状態でもないのでしょうね。
本当に残念です。》(やっぱり門弟になったのは人生最大の黒歴史さん)
https://washiblog.seesaa.net/comment/list_comments?article_id=473577875
未だ作家見習いに過ぎないエキノコックスにとっては、これだけしっかりした意見を述べてくれる方々の存在は本来ならばありがたいと思うべきなのですが、おそらくは聞く耳を持たないでしょう。
あと、どうでも良いツッコミを入れますが、冒頭にリンクを貼ったブログの中に、《やっぱり伊勢うどんは私のソウルフード、略して魂の食物や。》とありますが、略するのならば「ソウフー」か「SF」であり、日本語に変換するのならば「訳して」なのではないでしょうか?
さすが自称物書きですね。
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