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自分に好意を持たない女は死体

わしの思い描いていた通りの公論ができた。》

イボナメクジによりますと、岡山で開催した道場は成功であったといいます。
会場となった会議室の収容人数は最大でも75名であり、そこには総勢十数名の設営スタッフ(無償ボランティア)も含めます。
九州道場は集客に失敗したとして無償ボランティアを責めていましたが、今回と何が違ったというのでしょうか?

イボナメクジは応募者の欠席がほぼなかったとして、道場が始まった途端に大成功だと大喜びをしていたそうです。
まだ何も議題について話し合ってもいないというのに、狭い会議室に人を集めたというだけで成功したと言うのはどういう理屈なのでしょう。
ただ人集めさえすれば体面が保てるとしか考えていないということなのではないでしょうか。
それもその筈、いざ道場が始まると、イボナメクジがかんがえたさいきょうの女性論を開陳し、それをエキノコックス師範などが補完してゆくだけで、議論など一切しないのですから、そもそも熟議の余地がないのです。
つまり答えは初めから決まっているわけです。
だから応募者がとりあえず集まれば成功であると思えるのでしょう。
本来ならば、人を集めたあとにどのように議論し、その議論がどのように展開し、そしていかなる結論に達したか、その内容いかんで成功か失敗かを判断するものです。

しかし道場は人が集まったから成功だと言うわけです。
ならばせめて主催者発表で何人集めたか公表すべきでしょうに、何故かそれは隠蔽するのです。
今回の道場の配信動画はどういうわけか、会場全体を映すことなく終わったようで、視聴者にはどれだけの人が集まったか確認することも出来なかったようです。
どうしてそこまでして参加人数を隠匿するのでしょう。

また、イボナメクジはコロナウイルスが流行していることに触れ、自己責任で集まった参加者の覚悟とやらを褒め称えていましたが、感染症について自己責任論を持ち出すことの愚劣さをまるで理解していない低能さには恐れ入ります。
参加者当人は感染しても構わないと覚悟を決めるのは勝手ですが、既に感染している者が出歩くことが感染を拡大することになるのですから自己責任で済む話ではありません。
私は個人的には新型コロナについては騒ぎすぎだと当初から言っていますが、しかし感染症について自己責任などと間違っても口にすることはありません。
イボナメクジは道場に小さな子供を連れて来た参加者まで自己責任を貫徹した覚悟ある者として褒めていたのですから目眩がします。


さて、それでは予告していた通り、以下のマンガのコマの異常性について解説したいと思います。
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↑このコマを見て、イボナメクジの意見は何も間違ってはいないし、正常であると思った人は自分の常識を少しは疑った方が良いでしょう。

伊藤詩織さんがはじめて世間に声をあげたのはいつでしたでしょうか。
その頃、壇ミッツさん(仮名)はまだ道場の門弟であり、イボナメクジに呼び出されてレストランでの食事に付き合わされていました。
そこで壇ミッツさんは伊藤詩織さんの告発について話題にしたところ、イボナメクジは告発自体にはさして興味を示さず、薬で眠らせて暴行したことだけに反応して、山口敬之の行為について怒りの感情を露わにするわけでもなく、「薬で意識を失った女を相手にするのは屍姦と同じやないか」と笑い話をするように一言言うのみであったそうです。

さて、イボナメクジは《そもそも泥酔状態の女性を抱いても楽しくも何ともない》と言いますが、そこにあるのは自分の感情のみです。
この意味が分かりますか?

更にイボナメクジは続けて《自分に好意を持っていない女、しかも泥酔した女なんて、死体と一緒じゃないか》と言います。
自分に好意を持たない女は死体と一緒。
泥酔した女なんて死体と一緒。
この発言が何を意味するか、もうお分かりでしょう。
イボナメクジは女性の人格や意思を一切気にも止めていないのです。
イボは自分が楽しいか否かだけにしか関心もなく、自分に好意を抱かない相手は死体と同じであると見做す異常性について平然と公言してみせるのです。

決して女性の人格を尊重しているからではなく、「泥酔した女は死体と同じで抱いても楽しくないからやらない」というのがイボナメクジの理屈です。
イボナメクジは意識のある女性を支配し、モノのように扱うことに悦びを見出すクズであるのです。

そのことに通じるコメントが届いていたので紹介したいと思います。

批判者のみならず、事情で参加しなくなった者まで憎み、デマまで流して復讐する異常な承認欲求の強さ。自著で批判してきたことを自身がすべてやっているという倒錯性。支配、被支配の関係しか構築できない歪なコミュニケーション能力。村社会の悪弊のみを凝縮したような道場。
なんなのでしょうね。

しかし1つ言えると思うのは、小林氏が常に自慢にしている「プレハブ小屋で喘息発作のときも放置され、鍛えられたために、依頼心を克服し個が強くなった」というのも、やはり嘘でむしろ真逆だ、ということです。
心理学や児童発達学など知らない私がこのようなことを書くべきではないとも思いますが、子を持つ親として感じることです。

前々からプレハブ小屋エピソードや父親に怒られた際のエピソードなどは今で言えば虐待であり、「この育てられ方で、よくこんな立派な人になったもんだ」と感心すると同時に不思議でした。
プレハブ小屋で学んだのは、依頼心を克服したかのように見せかけ、強がることだけで、本当は甘えたかった、苦しいときに優しくして欲しかった思いが満たされないままこの歳にまでなってしまった子供です。強がって見せなければ承認されなかったのでしょう。
母親の死期を知ってEDを発症したのも、その思いに通じているのかもしれません。

「喘息は依頼心が強いせい」などというとんでもない診断をした医者の罪深さを思います。
しかしだからといって、人を傷つけることが許されるわけではありません。
自分の構築した心の欺瞞を見つめ直し、悲しかった自分を認められれば。そうすれば自分がどうするべきか見えてくるのでしょうが。
しかしこの欺瞞は根深く、氏のアイデンティティにまでなってこじらせているようですから、難しいでしょうね。
もっと早くに、氏が実は弱くて脆いことを全部受け入れて承認してくれる人が必要だったのだと思わずにいられません。
まあ心理分析の真似事は、私もこのくらいにしておきます。》(ずっとゴー宣道場ブログ読んでましたさん)

この簡潔にまとめられたイボ分析の見事さを読むと、道場随一の論客であるゲロ坊主のアンチ分析のショボさがより浮き彫りになります。




この記事へのコメント

  • ずっとゴー宣道場ブログ読んでました

    この件にだけは、私は氏に対して涙します。
    悲しいことは悲しいと、あなたももう言っていいと言ってあげたい。田嶋陽子さんのように、母親に「本当は嫌だった」と言えればよかったのにね。

    「わしは克服したんじゃい」と真っ赤になって怒るのでしょうけどね。
    2020年03月11日 07:13