村上茉愛、銅メダル、凄かった! | ゴー宣ネット道場
《村上茉愛は可愛くて妖艶で、アイドルみたいで、注目してた》
《色気があって、大胆で、美しく》
《女子やり投げの北口榛花も笑顔が可愛くて》
《大橋悠依の競泳を見たが、強くて強くて、なんと1着!金メダル!あんな美人が金メダル!素晴らしい!しかし水から上がってまたすぐマスクを着けて、顔を隠すのが本当に歯がゆい!もっとその美しい顔を見たかった。》
競技についてまったく分からないが、とりあえず女性アスリートなんてルックスさえ褒めておけば良いと思っているのか、性的ななまざしで鑑賞していることを隠しきれないのか知りませんが、ただ言えることはマジでグロキモいです。
グロキモいといえば、イボマンガ。
今更口からデマカセを描くことについてツッコミを入れる気はありませんが、「コロナ回復後に愛人と愛を交わした」という虚勢はあまりにも切なすぎます。
イボナメクジは時折「芸のためなら女房も泣かす。それがどうした文句があるか」的なエピソードを披露することがありますが、それが彼の中にある憧れの男性像なのでしょう。
このような描写について、マジに受け止めた人が「酷い」と反応すると「あれはギャグパートである。わし一流のユーモアも分からない純粋まっすぐ君」などと揶揄するわけですが、完全なホラ話を体験談として語る奴とは他の議論も成立させることは出来ないと考えるのが常識あり、オオカミ少年はそれゆえに誰からも相手にされなくなるのです。
齢七〇近い老人が勃起不全になることは別に恥ずかしいことではありません。
しかしいつまでも若ぶって「脂の乗った畜肉を食って愛人とガンガンセックスする性豪」であるかのように嘯くED爺さんの虚言はあまりに恥ずかしすぎます。
それをギャグと呼ぶには痛々しすぎます。
どういうわけか、イボナメクジは未だにセルフイメージを「性の伝道師のモテ男」としていますが、それが単なる憧れの発露に過ぎないことは当方ブログで散々検証してきました。
イボナメクジについてデビュー当時から今に至るまで追い続けている人の方が稀だから悟られないと思っているのでしょうが、そもそもイボナメクジは現在のようなゴーマンなモテ男キャラを演じるようになったのは「おぼっちゃまくん」のヒット以降であり、それ以前のマンガで自身を投影したキャラクターを出した時は冴えないブ男に描いていました。
性格も気弱な内弁慶で、アイドルとプロレスのオタクといった感じでありました。
まさにイボスタッフであるドロヘドロやイボ愛読者の餅アナゴと同類といった趣きです。
そんな気弱なイボはしかしマンガの中だけでは強気に振る舞えると自嘲気味に語ってみせる客観性は持ち合わせていたのです。
以前に映画評論家の町山智浩さんがまさにそのことについてツイートしておりました。
《私は小林よしのり氏の『東大一直線』は連載開始から読んでおり、心優しくひ弱な漫画狂太こそ氏の心の自画像だと共感して愛読していました。
氏自身はゴーマニズム以後、傲慢不遜な東大通をペルソナにまとい強く逞しく変身しましたが、今も心の奥底には私が愛した漫画狂太がまだいるのだと信じています。
強がらないで、本当の自分でいれば、もっと素晴らしい作品を生み出しただろうと思います。
肉体的に強いかどうかと無関係に、強さに憧れ、強さを演じるのは、繊細でひ弱な心だからこそです。本当に強い人は強ぶりません。勝とうとしません。勝ちを誇りません。弱い者こそ弱さを克服すべきものとして憎みます。自分も弱いから梶原、石原、小林氏らが強さをまとった気持ちがよくわかるんです。
漫画狂太の弱さに共感した自分は、小林氏の近年の作品に漫画狂太を見出すことができなくて、悲しいのです。》
確かに、イボナメクジは時折強烈なほどの弱さを見せることがありますが、今の読者はそれを決して許してくれません。
なにより最側近のドロヘドロがまっさきにそれを否定して、イボナメクジを現在の状況になるまで追い詰めました。
《町山智浩氏が、11月18日にこんな連続ツイートをしていたので、一応紹介しておきます。》
《トキウラ流に以上のツイートを翻訳しますと、「ボクは弱いんだ! 弱くて何が悪いんだ!誰だって弱いんだ! 弱いのが本当の自分なんだ!強くなろうとしている奴なんて、みんな嘘つきなんだ!かつての小林よしのりは、弱そうだったから好きだったんだ!強者になろうとしている小林よしのりなんか嫌いだーい!!」…って、言ってることは、これだけですね。》
《自分の弱さから目を背けて強者ぶろうとする人は確かに多いかもしれないけれども、自分の弱さを見つめつつ、なおも自分の弱さを克服して、強くなろうとする人だっていくらでもいるんですよ。なぜなら、この世は強くなければ生きてはいけず、強くならなければ自分も他人も守れないというのが現実なのですから。》
イボナメクジがいなければ自分の尻の穴も拭えないような雑魚が何を偉そうに語っているのかと思わず失笑してしまいますが、このように身近にいるスタッフがイボナメクジをとことんまで追い詰め、70近い爺さんになっても「不謹慎逆張り悪趣味」というカビの生えた価値観を売りにして炎上商法をしなきゃならなくなっているのですから哀れと言えば哀れです。
イボナメクジは「おぼっちゃまくん」のヒット後に、ファンの子供たちを相手に自分は「イケてるお兄さん」だと思われたくて、「ちょいワル」を演じ始めたのが今に繋がっているわけです。
「天才」を自称し始めたのもこの頃なのではないでしょうか。
初期衝動でヒットした「東大」のあとは不遇の時代を迎え、コロコロコミックという当時はドラえもんとホビー情報以外は単なるオマケにすぎない幼年誌に描くしかないところまで来ていたところで自信を回復したまでは「マンガ家のちょっとイイ話」なのですが、あの例の90年代の悪ノリ文化によって、イボナメクジはあらぬ方向に走り始めたわけです。
90年代はある意味、「人を錯覚させた奴が勝ち」というノリがあったのではないでしょうか。
本来、「天才」とは自称するものではありませんでしたが、松本人志をはじめ誰も彼もが天才を自称し、その自信あふれる態度から「天才を自称する奴はスゴイ」という倒錯した価値観が共有されました。
それはスラムダンクの桜木花道の「自称天才」という勘違いギャグをマジに受け止める読者がいたことからも明らかです。
イボナメクジはマンガの中で、自分自身を「天才」や「モテ男」や「傲岸不遜」として描きましたが、それはすべて単なる自分の憧れの発露でしかなく、また今で言うネット弁慶みたいなものに過ぎません。
だからマンガでは威勢よく傲慢にふるまっていたのに、いざ山田詠美と対談すると異様にへりくだり、朝生では口数が少なくなり、逆にテレビ慣れしていない素人(運動家)を前にしたら調子づいてやり込めた気になって、それを未だに手柄の一つとして自慢し続けてみたりと、いちいちみみっちい。
《17年前、慰安婦が教科書にまで載るという自虐史観絶頂の時代、深夜の討論番組で慰安婦問題「謝罪派」の市民団体ら5人対わし1人というハンディキャップ・マッチをやったことがあるが、最後にわしがこれを読み上げると「謝罪派」は全員沈黙してしまい、視聴者の反響でもわしのほうが圧勝という結果になった。》
イボナメクジは勝新や小林旭といった豪快な昭和のスターに憧れるもやしっ子ならぬもやしっ爺であり、自分もそうでありたかったという願望をマンガのキャラに投影しているわけです。
それを知った上で、今のイボナメクジのマンガを読むとなんだか同情心が湧いてきますよね。
いや、一切湧かねぇ。
「あそこ」とか「アバズレ」とかいちいちダサくて爺さんが無理に考えたエロエピソードの哀しみしかない。
「わしのワクチンはお前にしか打たせないぜー!」ではなく「お前にしか打たないぜー!」と言うべきなのではないのかというツッコミさえ無意味。
おそらく見えないデリケートゾーンでは、ドロヘドロが必死にイボのフニャチンをしごきながら挿入の手引きをしているのであろう。
それゆえに「お前にしか打たせないぜー」という言い回しになるのであーる。
この記事へのコメント
XYZ
尊師の創作エピソードを楽しみにしているのは信者だけでしょ
イボ説法はかってーなに載せる位がちょうどいい
原稿料は総合Pと応相談 笑
XYZ
https://www.gosen-dojo.com/blog/31933/
バカのフォローはフォローになってない 笑
イボナメクジ道場のヤバさが際立って最高です
あ、尊師の数々のエピソード、話半分で見られてますよー
恥ずかしい(//∇//)
「あと、私は以前から、『ゴー宣』や『辻説法』などで描かれているエピソードについては、「ホントかウソかわからない、だけどオモシロイ」という距離感で楽しんでいます。」
(だふねさん)
編集長がよほどイボが好きなんですかね。
ライジング購読者:漫画家と創造力
「イボナメクジは勝新や小林旭といった豪快な昭和のスターに憧れるもやしっ子ならぬもやしっ爺であり、自分もそうでありたかったという願望をマンガのキャラに投影しているわけです。」
このくだりを読んで、以前問題にした代表がゴー宣以後、
なぜ純粋な(ギャグ)漫画を描かなく・描けなくなったのか
について考えさせられました。
要は、自分の願望(造形・言動)+ノンフィクションキャラ
(設定)を柱とした漫画=ゴー宣に慣れてしまったため、
オリジナルな漫画(キャラ+シナリオ)が創れなくなったのかと。
代表は以前、ギャグ漫画家は燃え尽きるのが早いと語って
いましたが、ほぼ同じ時期にコロコロで描いていた樫本
学ヴは下品なギャグ漫画「学級王ヤマザキ」の連載が終了した後、冒険活劇漫画「コロッケ」をヒットさせています。(アニメ化もされた)
なぜ樫本氏に出来たことが代表に出来なかったのかと
考えたのですが、おそらく90年代以後の漫画・アニメの
勉強・研究を止めてしまった・ろくにしなかったことが
大きかった。キャラメイキングが既存の人物を自分の願望に沿って動かすだけなら、設定も背景も考えなくていいでしょうが、創る力は鍛えられる事はない訳です。
枯渇していく創造力を補うには、なおさら同時代のヒット作に学ぶ(進歩的な価値観ではなく、テーマ・作画・笑いのツボ等)が必要だったのですが、多忙からか、驕りからか、はたまた漫画そのものを愉しむ事が出来なくなったからか、とにかくこの四半世紀ほとんどギャグ漫画家は開店休業状態だったなと感じます